「あきらめたらそこで試合終了だよ」という有名な言葉がありますが、一般的に「諦める」という言葉に対してはネガティブな印象を持たれることが多い気がします。
僕も20代の頃はそうだったのですが、最近は逆にポジティブな印象を持つようになりました。
深ぼってみるとなかなか面白い話だなと思ったので、今回はこの「諦め」について再考してみたいと思います。
「必然的諦め」と「選択的諦め」
僕は諦めには次の2種類があると考えています。
- 必然的諦め:諦めざるを得ない状況で、諦めるしかないこと。
- 選択的諦め:諦めざるを得ない状況ではないが、あえて諦める選択をすること。
冒頭で述べた「ポジティブな印象持っている」というのは、後者の諦めのことです。
選択の余地がない諦めではなく、諦めないことも可能だがあえて諦めるということ。
別の言い方をすれば、「しないことを決める」ということ。
僕はこれを「選択的諦め」と名付けていて、特に、何かを改善したり何かを強化する目的で行う選択的諦めは、ポジティブなものだと捉えています。
リソースの配分
僕は好奇心旺盛な方なので、やりたい事や欲しいものは沢山あるのですが、あれもこれも全てを実現させるのは現実的に考えて不可能です。
やや冷めた見方だと思われるかもしれないけれど、事実なのだから仕方がありません。
生涯稼げるお金には必ず上限値があり、使える時間にもまた必ず上限値があります。
このお金や時間というリソースに限りがあるということは、自分が将来叶えられることにも限りがあるということを意味します。
そんな当たり前のことに、僕は30代に差し掛かった辺りでようやく気がつきました。
重要なのは、この限られたリソースを何にどう配分していくかということです。
このリソースの配分比率というものが、その人の生き方を表すものになるのではないかと思うのです。
例えば、あれこれ特に大きな強弱を付けずに、リソースを広く浅く平均的に配分している人というのは、いわゆる平均的な人・普通の人生を送っている人と言うことができるのではないでしょうか。
一方、何か特定のものにリソースを大きく集中投資している人は、偏ったライフスタイルの人と言うことができます。
どちらが正解というわけでもないし、配分比率自体に正解があるものでもないと思います。これは好みの問題と言って良いでしょう。
僕はというと、平均的なリソースの使い方よりも偏ったリソースの使い方の方が面白いと考えていて、どんどん積極的に偏っていこうと思っています。
ただ、何か特定のものに平均以上のリソースを配分するのであれば、必然的にリソースを十分に配分できなくなるものも出てくる。
つまり、偏ったリソースの使い方をしたいなら、その分何かを諦める必要が出てくるわけです。
諦めの効用
僕が選択的諦めをしているものは結構色々あるのですが、最近良かったなと思えた事例を2つ紹介したいと思います。
1つ目は映画。僕は映画が好きですが、家で映画を観るのは諦めています。
理由は、読書やブログやカメラにより多くのリソースを投下したいから。
やろうと思えば映画を楽しむことも可能ですが、映画を観ればその分読書やブログやカメラへのリソース配分は確実に減るわけで、それを許容できるか否かが問題となります。
約2時間という時間の使い道を考えたときに、僕の場合は映画を観るよりも読書やブログなどに使った方が、得られる幸福感の総量が多くなるだろうなと感じました。
なんだか、全部やろうとするとどれも中途半端になりそうな気がしまして。
なので映画は諦めることにしました。
結果、好きな読書をする時間が増えたし、こうして好きなブログを定期的に更新し続けられているし、個人的には良い判断だったなと思っています。
これはあくまで家で観る映画の話でして、映画館に映画を観にいくことはあります。最近はTENETがめちゃくちゃ面白かったですよ。
もう1つの例は料理です。僕は料理も好きですが、たまにしか使わない調味料(例えばココナッツパウダーとかナンプラーとか)を使用したレシピは作るのを諦めることにしています。
色んなレシピに挑戦するのは大好きだけれど、何種類もの調味料を用意するとかえって選択肢が増えて決めるのも作るのも時間が掛かるし、たまにしか使わない調味料は結局賞味期限切れになって使い切らずに破棄することが多いからです。
この選択的諦めは意外と色んな面でメリットがあって、塩・しょうゆ・お酢など汎用性の高いベーシックな調味料だけで作れるレシピだけを選ぶと決めてからは、すこぶる調子がいいです。
まず選択肢が多少絞られるからレシピを選ぶのがより楽になるし、ベーシックな調味料だけを使うからシンプルで覚えやすく時短にもなる。逆に料理が上手くなった気がするし、素材の旨みを活かすレシピをチョイスするから健康にもいい(たぶん)。
時間やお金の節約だけでなく、脳のメモリーも節約出来ているように感じます。
ベーシックな調味料だけにしている分、塩やオリーブオイルはちょっと良いのを使っておりまして、素材の旨みを味わえるストウブ鍋を使って美味しい料理を楽しんでおります。
いずれも諦めるという意思決定をしたことで時間やお金のリソースが増えまして、増えたリソースを好きなものへ向けることで好きなものが更に得意になっていくという好循環を生み出せており、結構満足しています。
これこそが選択的諦めの効用であり、僕が「諦め」についてポジティブな印象を持っている理由であります。
他にもファッションとか情報とか、意図的に選択的諦めをしているものは沢山あるのですが、その紹介はまた別の機会にでも。
選択的諦めとミニマリズム
最後にミニマリズムについても言及しておきたいと思います。
リソースの偏った配分を好む人にとって、ミニマリズムは好都合かもしれません。
なぜなら、ミニマリズムで時間やお金といったリソースを生み出すことができ、そのリソースを自分の偏愛事へ投下することができるから。
そこには確かに「諦めたもの」が存在しますが、それはより好きなことへリソースを投下する為のポジティブな選択的諦めです。
逆に浮いたリソースの使い道が無いとか、リソースの平均分配型のライフスタイルを望むのであれば、わざわざ“選択的に”ミニマリストになる必要はないように思います。
僕は、選択的諦めを経て、嬉々として自分の好きなことに打ち込んでいるミニマリストは相当カッコいいと思っています。
そういう人達からは、「自分の人生を自分でコントロールしよう」という強い意思を感じます。ちょうど、僕が影響を受けたThe minimalistsがそうであるように。
だから僕もそういうミニマリストでありたいなと思うわけです。
ミニマリズムはその言葉の響きから、往々にして減らしたもの(=諦めたもの)やモノが少ない空間にだけ注目されがちであるというのが、なんとも皮肉な話です。
僕はどちらかというと諦めたものの方ではなく、代わりにリソースを集中投下したものの方をよりフィーチャーしたいなと考えていて、今後もこのブログで発信していけたらなと思っています。
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